母への手紙と弟たち

この前の病院が25日。
当日は帰るのが遅くなり、友人と食事に行ったり、仕事でバタバタしたり……と、結局手紙を書き終えて、投函したのは昨日でした。

病院で貰ってきたパンフレットのコピーやら、骨髄バンクの資料やら。

で……

弟たちに連絡が取れるなら、出来ればドナーの検査をしてみてもらえるように、話をしてもらえないか、と書き加えました。
骨髄移植は、ドナーさんの負担だって結構ある。
いや、もちろん移植はどんな移植だってそうなんだけど。
臓器移植に比べたら、少ない方なんだろうけど。

でも、彼らの生活に若干の負担を強いることは、事実なので。

昨日投函したので、多分今日、郵便が着いて、すぐに連絡を取ってくれたんだと思います。
「二人ともね、すぐに『いいよ、どうしたらいい?』って言ってたよ」と先ほど連絡がありました。

「お母さんあんまり知らんかったんじゃけど、簡単な手術じゃないんじゃね。読んでね、電話したけぇ」
正直、母にどの位理解できたのか、あるいは弟たちにどの位の説明をしたのか。
よく分からない。でも……考えてみれば彼らももう、揃って40前のいい大人です。
いつまでも「弟」のつもりで(いや、弟は弟なんですが)「ちゃんと理解して言ってる!?」と心配するのもヘンな話なんでしょう。

しかも、母の話だと「すぐに『いいよ』って言ってた」って。
自分だったらどうだろう。やっぱり一瞬ためらっちゃうんじゃないだろうか。それでも多分引き受けるけど。

何度かここでも書いていますが、今の母は継母です。そして弟たちは私と両親共に同じ弟。
実母はどうしたかと言えば、私が中一の時になくなっています。
母が亡くなってすぐ、父方の祖母が来てくれていましたが、体力がついていかず、半年弱でリタイア。

そうして、私たちは父子家庭になりました。

たしかそれは春。私たちだけの生活になって、間もない頃だったと思います。弟は小学校6年と4年で、小学校の遠足がありました。

まだ生活は固まっておらず、夕食と翌日の朝食の準備をするのは、父がやっていました。お弁当は私だけだったので、私は自分で作っていました。でも、遠足だったら二人の分も作らないといけません。

まだ、慣れてない頃で、遠足のお弁当らしくおにぎりを作り、確か豚肉を焼いて、遠足だもん、やっぱり卵焼き作ろう(亡くなった母の得意だったので)、と思って卵焼きを焼いていたら……
とつぜん涙が止まらなくなりました。

多分何かが切れてしまったのだと思う。
少し焦げ目のついた、みっともない卵焼きを前に、涙が止まりませんでした。多分、自分なりに寂しかったりとか、上手においしいお弁当を作ってあげたいのに出来ない情けなさとか、そんなものが溢れてしまったのでしょう。

まもなく、弟たちが起きてきて、私は何食わぬ顔をして、そのお弁当を渡し、学校へと行きました。

お弁当を作りながら泣いたのは、多分それが最初で最後です。
その後の二学期にはよりにもよって給食センターが立て直しになったりして、毎日毎日ずーっとお弁当を作って、それなりに上手になり、やがて父の再婚で、毎朝のようにはお弁当を作らなくてもよくなり、弟たちもお弁当をそんなに必要としなくなり……

その、遠足の日のことを思い出していました。
弟たちは、きれいに食べてました。「品数少なくてごめんね」と言ったら「好きなもんばっかりだったから、全然良かった」というようなことを言ってくれた覚えがあります。
そして……誰にも言わず、気付かれてないつもりでしたが……
今思えば、父は「寂しい思いをさせなくてよかったな」と私に言ってくれたので(それも、その後何度か)、私が泣いていたことに気付いていたのかも知れません。

お弁当を作ったこと以外そんなに姉らしいことをした覚えもなかったし、今は音信不通になってますが。
母から弟の話を聞いて、またもや涙してしまった、今日の私でした。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする