紫式部と清少納言

ここのところ、こっちの記事も大分ご無沙汰だなぁとふと通勤中に思いました。
というのも、なによりもまず、忙しく本さえ読んでいない。
習い事すらお休みしているので、それは仕方のないことでもあるのですが、そろそろ身辺も落ち着いてきて、色んなことを考えられるようになったし、一つ何か書くかなぁ、と思って思い浮かんだのがこの話です。

清少納言と紫式部は仲が悪かったイメージがあります。が、実際には多分この二人、宮中では会ってないんですよね。
で、紫式部日記にワルクチ(!)が載ってることもあるし、ま、実際にそのワルクチが「そういや、そういう感じあるかも……」と思わされるような鋭さがあったりして、清少納言に対してあまり良くないイメージを持っている人は、この紫式部日記の影響が大だと思います。
とはいえ、じゃぁ紫式部の方がいいイメージを持ってるかどうか、と言えば。
日記にあんなワルクチを書く時点で、どうやったって「いい人」には見えないというか。とはいえ、そうだったからと言って、彼女たちの作品の何が色あせるというわけでもないのが、すごいところだと思います。
(いや、色あせる、という人いたら、ゴメンナサイ)

で、私なりにこの二人の違い、というものに関してつらつらと、思うところを書いてみたいと思います。と言っても二人の人間性の違いではなく、文章のことなのですが。
まず一つに、二人の代表作の枕草子と源氏物語を読まれた方は感じられると思いますが、同時代に生きた二人なのに、なんて二人の書く文章は違うんだろう、ということです。

枕草子は読みやすい。はっきりしている。
源氏物語は読みにくい。だらだらしている。分かりにくい。
もちろんそのものの長さが違う問題もあるし、扱っているテーマも違うし、そもそも随筆と物語なのだから、違うと言えば違うのは当たり前でしょう。
けれど、直接遭遇はなかったにせよ、ほぼ同時代に生きた二人、なのに。
なんでこんなに違うのか。
そんなことを考えててふと思ったこと。
この二つって、文章になっている時点で「読まれる」ことを前提に書かれているわけだけれど、その「読まれる」が違うんじゃないだろうか。

私は枕草子を読んでいると、どうしても「朗読」したくなります。ちょっと前に書いた、菅原の孝標の女が部屋にこもって読みふけったのは、源氏物語です。おそらく枕草子は部屋にこもって読むものでは、ないんじゃないか。

話は少し逸れますが。先日親戚に不幸があって、お葬式に参列しました。お葬式はお坊さんが三人の、結構豪華なものでしたが、お葬式の読経の中に「故人はかくかくしかじかの人間で、生きているときにはこんなことをしたから、仏様、どうか故人を天国にお導きください」みたいなことを読み上げる箇所があります。
(全文を聞き取れているわけではないのですが、多分こういうことを言っているのだと思います)
そのときのお坊さんの声は、それは凛々しくて、「あぁ、こういう声で仏様に申し上げてもらえれば、きっと天国にいけるだろうな」と思ったのです。

枕草子は「詠みあげられる」ことを前提の文章だったのじゃないか。あるいはそこまで行かなくても、清少納言はそういうシチュエーションを意識して枕草子を書いたのではないか、とそんなことを思います。

では反面、源氏物語は、と言うと、私はこれを読むたびに、おしゃべり好きな年配女性の一人おしゃべりを思い浮かべます。
そもそもが女房が昔語りをする、という設定ですから、それでいいのでしょう。話がずるずるだらだらと、とめどなく流れていくのだけれど、そして文脈で分かるでしょ、とばかりに主語が抜けたり時代や話題が飛んだり。
でも、きっとそういうもの、なのです。

源氏物語は、昔文学少女だったような、おっとりとしたおばあちゃんにゆっくりと語り聞かせて欲しい。枕草子は凛々しい声の……30代くらいの威厳と若さを感じさせられる声の人に詠んで欲しい。
そんなことを思います。