身分というもの 源氏供養上巻 その2

引き続き、橋本治さんの源氏供養の上巻、その2です。
「源氏物語」というものを読むときに、ついつい私たちは「恋愛小説」としてのみ読み、その背後にある時代背景とか、その当時の倫理観、生活習慣をすっとばして読んでいてはいないでしょうか……
私たち、という言い方が不遜ですね、私はつい飛ばしてしまいます、というのが正直な懺悔です。
源氏物語を恋愛小説として読む人は多いけれど、歴史小説として読む人は少ない。(歴史小説ではないのですから)
では、政治小説としては? あるいは……友情小説(?)としては……?
まだるっこしい言い方になっていますが、結局のところ、紫式部はあくまでも1000年前の人であって、今の人ではない。それを改めて認識したこの本でもあります。

もちろん、1000年前の人であることを前提に、「ここの部分は今でも通じる! すごい!」という視点も大事だし必要だと思うのですが、そこを思うあまり、「これはあくまでも1000年前の人の常識の枠組みで作られた物語である」ということを忘れると、彼女の言いたかった「本当に大事なこと」を読み落とすかも知れない、という危機感を抱いた(大げさですが)というところです。

それは前の記事でも書いた「弘徽殿の女御」についてもしかり。
今の価値観で言えば、嫉妬深く、執念深く、生意気で、気が強くて、可愛げがなくて……あくまで敵役なので読者に「そう言う風に」読まれるのは紫式部としても本望でしょうが、それでも端々に「彼女は高貴な生まれでお后なのだからそうなってしかるべき」という記述があることなんて、この本で指摘されるまで全く見逃していました。
今の時代の大半の読者は彼女の「権力者ぶり」が嫌いだと思うのですが(そして紫式部もそうだと思うのですが)、しかし「実際のところ(千年の昔)」天皇の母で後見役の皇后なんていうのは「そうあってしかるべきだった(そういう役割を望まれていた)」と思われる部分があるのです。
紫式部はおそらく時代を超えたものを見る目をもった稀有な作家で、だからこそ私たちはそこを違和感なく読んでしまうのですが、実はそんなことを思うのは「紫式部だけ」だったかもしれない。

光の敵役とはいえ、「皇后様ならこんなものよね~」なんて案外当時の読者はおもっていたかも知れません。
また、これとは少し趣が違いますが、情景の描写にしても、橋本氏は指摘されています。
源氏物語は和歌とか情景描写が数限りなく出てきますが、私たちはついそれを「背景」だと思ってしまっている。
今私たちが背景だと思って、それなりに見過ごしている中に、実は今の私たちの想像もつかないような深い「情景」が実は表現されているのかも知れません。

とはいえ、ここの部分はもう、今となっては想像するしかないので、いかんともしがたいのですが。

で、橋本氏のこの指摘を読んで、ふと思ったことがあります。
えらく飛んでしまいますがお許しください。しかもちょっと思い込みかも。

日本の漫画には「捨てゴマ」というのがあるらしいですね。カットというか、ストーリーの背景みたいなものを書くためにちらっと校舎の絵を入れたりとか、そういうことです。(直接ストーリーには関係ないけれど、あるとぐっと奥行きが出る、というものだそうです)
そう言えばあるなぁと思ったのですが。

外国の「コミック」にはこういうのってあるのでしょうか。
日本の漫画が「MANGA」として海外に普及しはじめて、大分が経つような気がします。かねがねなんで「MANGA」がこんなに諸外国で受け入れられるのだろう、あるいはなんで外国にはこういう「MANGA」が発生しなかったのだろう、と思っていました。
もちろんこれが答えとは思いませんが、私はここにこの「情景描写」あるのかな、とらちもないことを考えました。
日本の漫画は、結構情景描写が多いと思うのです(特にドラマ性の高いものに)
これは……もしかすると1000年の昔から、当たり前のように背景を情景としてきた日本文化から生まれた結果なのだろうか、と思うのです。
1000年の昔から、風景や背景を「情景」としてきた文化が、今この時代に「MANGA」と形を変えて、世界に広がっているのだとしたら、これはなんだかすごいなぁと、そんなことを感じます。

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