霊魂という存在になる女

これも橋本治さんの源氏供養を読んでいて、ふと思ったりしたのですが。
本を読んでの感想というわけではありませんので、このカテゴリーで書きます。

生身の人間ではない存在になって、源氏の前に姿を現す、という女性が、源氏物語には少なくとも二人います。一人はかの有名な六条の御息所。そしてもう一人が藤壺の女院です。六条の御息所が夕顔と葵の上の命を奪ったこと、あるいは女三宮の落飾後に出てきたことなどは今更いうまでもなく、特に葵の上に乗り移って源氏に姿を現すシーンなどはこれでもかというくらい、恐怖のシーンでもあります。
一方。藤壺の女院は。
幽霊という存在で出てきません。もちろん生霊でもありません。が、……彼女は源氏の夢に出てくるのです。

当時物の怪というものは、かなり信じられていたようだ、ということは間違いないようです。(紫式部がそれをどう捉えていたのか、ということは不明ですが)
そしてその延長に「夢」もあるのではないでしょうか。起きているときに見える霊魂が幽霊でありあるいは物の怪で、寝ているときに見るのが夢なのではないかと、そんな風に思います。
そう思うと、この藤壺の女院の夢は、現実の人間に害はおよぼしてはいないけれども、そこにある「思い」が形を取って出てくる、という意味で、実は「源氏の心の投影」という意味では六条の御息所と同じなのではないか、と考えられるのです。
六条の御息所が本当に夕顔を、葵を殺し、女三宮を落飾させたのか、それは分かりません。いや、物語の中ではそういうことになっているのだから、そうなのでしょうが、「もしこれが」今の実在の社会のことであったなら。
夕顔は腹上死で、葵は出産に伴う死で、女三宮は源氏のつれなさをうらんだあまり……というそれだけの見方も出来ます。
「六条の御息所」という存在を持ち出さなくたって、今の私たちは彼女達の死の理由は「ありえる」話なのです。
では、なぜ「六条の御息所」が出てきたのか。

紫式部が「物の怪」を信じていたから、なのでしょうか?

藤壺の女院が源氏の夢に登場するのは、彼女の死後、かなり経ってからです。
紫の上に昔話をした夜、「恥ずかしい目にあっている」と源氏に恨み言を言う、というそれだけです。どうしてこの期に及んで、彼女は源氏の夢に出て来たのか。

それは源氏が「六条の御息所への罪悪感」「藤壺の女院への罪悪感」を持っていたから、ではないでしょうか。
そしてこの二人の共通点は。
源氏が自身が関係をもったことを申し訳ないと思うくらい「身分のある、高貴な女性」ということです。

それは逆に「身分の高くない女性」に対して源氏は「罪悪感などかけらももっていない」と言うことかもしれません。
私は源氏物語を読むとき、ついやっぱり「もし私が○○だったら」という読み方をしてしまいます。
そんな時、ふと思ったのです。夕顔が祟って出てこないのはなんでだろう。顔も見せてくれない男に廃屋に連れ出され、さんざんやられた挙句にその男を思っている女に取り殺される。それでも幽霊にならないのは? 性格的なものでしょうか。じゃぁその、性格的なもの、とは?
あるいはもっと下の身分で、源氏に愛されたことがあっても、そのまま打ち捨てられていた人たちがいなかったはずはないのです。高貴な女君のおそばの女房にも、さんざんお手つきしていたはずです。彼女達の怨嗟の声がまったく見えないのは?
……彼女達の身分が低かったから、ではないのでしょうか。彼女達の身分が低かったから、源氏は罪悪感なんて感じなかった。だから彼女達は幽霊になんてなれなかった。

そこまで考えると。
はたして紫式部は「物の怪」を信じていたのだろうか、とそんなことを思うのです。

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