プロフィール


如月 ローズ

ソムリエ&フードコーディネーター(検定3級)
現在岡山県のスーパーマーケットで販促のお仕事をしています。
1970年 水瓶座生まれ

profile

*お酒と料理で豊かな食を

このサイトは、毎日の食をもっと充実させたい、あるいはさせたいと思っているけれど、イマイチ充実しない……そんな思いを抱いている方に、ちょっとしたアイディアや情報をご提案することで、ストレスなく幸せな食生活、――ひいては幸せな毎日を過ごしていただきたい、そんな思いで運営しています。

私自身、一人暮らしを始めて、ずいぶん経ちます。過去にはパートナーがいて、二世帯住宅に住んでいたこともあります。どちらの暮らし方、生き方がいいとか悪いとかではなく、今、私は一人暮らしをとても楽しんで日々を過ごしています。そのベースにあるのは、社会人になってからほぼずっと続けてきた小売業の経験、十代の頃からやってきた(やらざるを得なかった?)料理、そして大学時代に面白さに目覚め、身に着けてきたお酒の知識です。

今までの話

お酒と食の楽しさに目覚めたのは、大学時代のアルバイトでした。十代の頃からあこがれていた一人暮らし。アルバイト先の割烹で、調理の基礎やお酒の基礎、そしてお酒を飲むことの楽しさを目の当たりにしたのがきっかけです。学生時代、それも一人暮らしですから、自分で、あるいは友人と、あれこれ楽しんでいたのが始まりで、就職は大手総合スーパーへ。
お酒をやりたい! と希望したものの、当時大卒女子はまだ、食品に配属されない時代で、実は私の代が初めての「大卒女子食品担当」でした。配属先は菓子。一年後には新店のオープンにも携わり、グループ会社に転籍したりしつつ、ある日営業部長が言いました。
「え? 酒やりたいんか。ワインアドバイザー取ったら、店に戻してやるよ」

その時、私が本部でやっていた仕事は、グロサリーのバイヤーでした。多分、半分くらいは冗談だったのではないかと思います。当時の私は酒を含め、食品や菓子まで担当しており、本部の仕事に忙殺されていました。お店で、実際にお客様に直接提案をしたい、そういうお店を作りたい、とあちこちで言って回っていた頃です。当時仕事でお付き合いのあった協和発酵(現在はアサヒビールに統合されています)の営業の方にも「酒を希望しておられるんですか? だったら確かにアドバイザー持っていた方がいいですよ」と教えてもらい、勉強すること一年、ワインアドバイザーの一次試験に合格しました。
当時私は松江に住んでおり、仕事をしながらの勉強でした。時間的に、とても二次試験のティスティングにまで力が回せず、結局不合格。翌年一年間は、一次試験が免除となるため、翌年にすべてを賭け、再受験し、合格を手にしたのは2000年の9月のことでした(ワインアドバイザーの呼称は、現在ソムリエに統一されています。当時は小売業の人はワインアドバイザーの呼称を受験することが一般的でした)

なぜかシステム担当へ

無事に店舗のリカーショップ店長として、店舗へ異動したものの、そこでの仕事は一年ほどでした。当時、その総合スーパーは、大きく業績が傾いており、社内はリストラの嵐。早期退職制度なども実施され、そして私の在籍した店でもお酒売り場を有人のリカーショップから、無人のセルフの売り場へと変更することになったのです。

本部に戻ってこないか、というお話もいただきましたが、当時私は結婚しており、本部へということだと別居生活になるか、長い通勤時間がかかるか、という環境でした。そして私は育ててもらったその総合スーパーを退職することになったのです。アドバイザーの資格を持っていたため、すぐにお酒のディスカウントストアに再就職。しかしこちらでは激務に体調とメンタルを崩し、パートタイムでしばらくはのんびりした後、最初に居た総合スーパーの頃を知っていた方に声をかけてもらい、再びスーパーへ。

しかしここではお酒の仕事ではありませんでした。とはいえ、もともと好きだった生活雑貨の仕事でしたし、当時の私はまだ酒販業界に戻ることが少し怖かったので、ちょうど良かったのです。そしてさらにそのスーパーでは、システムの入れ替えに伴いトラブル発生、バイヤーをやっていた頃に仕組みを作ったりしていた手腕を認められて(と説得され)システム担当に。
さらにそのスーパーは、2008年、食品部門を実質売却し、私のやりたかった「酒と食」の道は絶たれました。

2007年には離婚もしており、収入は減る一方。ずっとやり続けたいと思っていた「酒と食」の道は絶たれた。私は再び、今度は食品スーパーへと転職をしました。しかし、そこで期待されていたのは、システムの仕事。そう、前の職場でシステムの導入などをやっていたことは評価される一方、営業での実績やワインアドバイザーの資格などはまったく評価してもらえなかったのです。

再び夢へ向かって

それでも、私は生活のため、システムの仕事をするしかありませんでしたが、夢を失ったりはしませんでした。いくら情熱を会社にアピールしても、まともに取り合ってもらえないため、実力行使とばかりに、2014年の秋にはフードコーディネーターネーターの3級を受験(2015年2月1日に無事合格を手にしました)したりもしました。もちろん意地だけではなく、自分の夢を考えた時に、ソムリエの資格だけではいけないのではないか、系統的に「食」のことを学ぶ必要があるのではないかと思ったことも、受験の動機の一つです。

やがて、そのことを知った教育担当の方に、新入社員や若手社員の方の研修に講師役として出させてもらう機会をいただいたりするようになりました。
仕事はあいかわらず、システムの仕事しかさせてもらえませんでしたが、社内での料理教室などの機会に、個人的に発信を行うようなことも始めました。

私が作成したパワーポイント資料や研修資料は30を超え、社内では「ワインのことならあの人へ」と言っていただけるようになり、2018年春、ようやくシステム担当者から、販売促進担当者へと異動し、現在はチラシなどでお客様に豊かな食を届けるお仕事をしています。社内講師の役も、年々増え、インターンシップなどでもお酒と食の楽しさを伝える仕事をしています。

そして、次。やはりスーパーマーケットだけでは、限界があるとひしひしと感じている現在です。近づいたからこそ、見えるようになったものがある。もっと何か出来ることはないか、今の私が全力で発信できることは何か。どうすれば私の夢に近づけるだろう? そう考えて始めたのが、ネットでの発信でした。それがこのブログです。

お酒と食の力

今、小売業に携わっている、一人暮らしの一人の人間として、食事を作ることへのストレスは少なからずあります。
例えば、材料が余る。大きい単位でしか売っていない。作るのが面倒。美味しく作れない。美味しそうに作れない。世の中にあふれる情報を見てため息をつくことしょっちゅうです。
どうしてあんな風に作れるんだろう? もう少し時間があれば、お金があれば、あんな風に、こんな風に、美味しそうに、おしゃれに、料理を作れるのかな?

そんなことを感じたことはありませんか? でも、私たちは生きている限り、食べることをやめることはありません。そして、どうせなら、美味しい食事をとりたい、そう思うはずです。

仕事で疲れて帰ってきたとき、ストレスが溜まってきたとき、つらいことがあったとき、おいしいものを食べて、おいしいお酒を飲んで、疲れも吹っ飛んだ、という経験はありませんか?
「仕方ないなぁ。ま、明日も頑張ろう」と思ったことはありませんか?

おいしい食事、おいしいお酒にはそういう力があります。

このサイトには小難しいレシピはあまり載っていません(もちろん、少々難しくても「ぜひ休日にでもお楽しみいただきたい!」といったレシピもないわけではありません。でも、さきほどのような「おいしい」ものを、なるべく気軽に取り入れてほしい、という思いから「簡単さ」を心がけています)材料も、地方に住む私がスーパーマーケットに行って「ないなぁ」と思うような材料は、なるべく抑えめにしています。
また、レシピは基本的に一人分です(例外もあります。その場合は注釈をつけていますのでご確認ください)

見ていただいた方が、ご自身の冷蔵庫をのぞいて、あるいは仕事帰りにスーパーマーケットに立ち寄って、「あ、あれ作ってみよう」と思えるような料理やお酒、そして生活をご提案します。一人でも、一人だからこういう生活もできるよね、って思ってもらいたい。ここはそんなサイトです。

カテゴリーは、美味しい生活以外については食と酒以外の、私の趣味の生活や、なんとなく思ったこと、考えたことのつぶやき、一人旅や持病(骨髄繊維症という、まれな病気とかれこれ10年近くつきあっています)の記録などになっています。こちらも合わせてお楽しみいただけたら幸いです。

夢は海の見える部屋で文章を書きながら過ごすこと。

もう少し詳しい話はこのページの下部をご覧ください。

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【私が酒と食を扱いたいと思うようになるまでの話】

実家の話

私は広島県広島市南区に生まれました(生まれた当時は、まだ区ではなかったのですが)
三人兄弟の長子、弟が二人おり、家は母方の祖父母と同居の家庭でした。小学校に入るころ、父親が市議会議員となり、幼いころから家に大人が出入りするのが当たり前、また年に何度かは支持者の方をあつめてちょっとしたバーベキューをやったり、選挙の時は炊き出しを行なったり(家でやっていました)という家庭に育ちました。

そんな私の環境が激変したのは、中学一年生の時です。母が膠原病で死亡。家での女性は私一人となりました(同居していた祖母もその一年前に亡くなっています)中学一年生にして、家事の負担がかかってきました。
もちろん父はそれなりには手を尽くしてくれたのですが、手伝いに来てくれた父方の祖母が半年で「もうムリ」とのことで戻ってしまい、その後は家政婦の方に来てもらうように。とはいえ、一週間全部というわけでもなく、また弟や自分がお弁当が必要な日などは私が作ることになりました。
当時はまだ珍しかった「宅配セット」を利用しての、夕食。弁当の材料などは私が買いに行くようになり、家庭科で少し習っただけの私が、家での調理の多くをすることになってしまったのです。

この時期、記憶にあることは大きく二つです。
一つは、運悪く弟たちの小学校の給食センターが改装してしまったこと。一学期間だったと思うのですが、本来小学校は給食のはずが、このタイミングで改装で一学期間弟たちは弁当生活になってしまったのです。そして中学生の私はもともとお弁当。購買はありますが、菓子パンなどしかなく、弟たちは小学生なので(しかも急遽だし)購買もなく、お弁当を作るしかない毎日が突然始まってしまったのです。
最初は慣れず、毎日5時から5時半には起きて1時間くらいかけて作っていました。
でもしょせん中学生の作るお弁当です。そんなに豪華なものが作れるわけではありません。そんな中、小学校の遠足がありました。遠足と言えば、やはり「いつもより豪華に」と思うのですが、何を作っていいか分からない。それでも自分が食べたいと思うものは何かな、と考えて、玉子焼きと唐揚げを作って詰めました。おにぎりに時間がかかってしまい(ふだんのお弁当はおにぎりではなくご飯をつめるだけだったので、お弁当におにぎりを作ったことがなかったのです)おかずはそれだけになってしまいました。
帰ってきて、お弁当は無事空になっていて、弟がそれでも
「玉子焼きと唐揚げ、美味しかった。好物が入っていてうれしかった」
と言ってくれた時、私は我慢できず、自分の部屋に入って号泣しました。
今でも、なぜそこまで泣いてしまったのか分からないし、でも今でも思い出すと泣けます。なぜだろう? と考えた時に、弟なりに私を気遣ってくれた気持ちがうれしかった一方、それだけのお弁当しか作れなかった自分のふがいなさとか、もっとちゃんとしなきゃ、とか、そういったことで泣いてしまったのだと思います。

もう一つは、宅配サービスの話です。人数分の夕食材料がそろって、家に帰れば保冷剤とともに玄関先に置いてある状態になっていました。
作り方の書いてある紙も一緒に入っており(だったか、別途届けられるのだったか……)書いてある通りに作れば、ちゃんと栄養の足りるごはんになるものです。そしてその日も普通に発泡スチロールのボックスを開け、中身を台所へと運び、いざ調理をしようとしたのです。したのですが。

その日のメニューはイカの煮物でした。そして入っていたのは、イカ二杯。下処理のしていない状態のイカが、まだ凍っている状態で入っていました。調理の知識は家庭科で少し習った程度、今までの夕食も書いてある通りにすれば出来たので、私は目の前のそのイカを、どう処理して言いか分かりませんでした。とりあえず内臓を取らないと、と思ったのですが、何をしてよいか分からない。ただ、指を突っ込んだ覚えはあるので、もしかするとそれ的なことが書いてあったのかも知れません。でも、まだ凍っているのです。それをどうしたらいいかもわからず、がむしゃらに内臓を掻き出し、なんとか二杯目。二杯目も同じく、なんとか見よう見まねで処理。その時の凍ったイカの冷たさと、手先の痛さが今でも忘れられません。

そんな私でしたが、料理をいやになることもなく、中学三年の春には父親が再婚、私はその翌春、無事に志望高校へ進学、その頃には「はやく一人暮らしをしたいな」と思うようになっていました。

高校、そして大学へ

高校は市内の中心部にある高校で、帰りには繁華街を通って帰ることも多くありました。その中で私が好きだった空間が、アンデルセンの本店と、そのななめ向かいの辺りにあった食器や調理器具の専門店です(今、調べました。渡部陶苑ですね、まだあるようです)
ここに立ち寄っては、自分の夢の「一人暮らし」とその「台所」を頭の中で組み立てていました。

受験は一年目は失敗し、一浪。その後、国立島根大学に無事入学することが出来て、晴れての一人暮らし生活が始まることとなりました。当初は寮へという話もあったのですが、高校の担任が「あなたは一人暮らしの方が、たぶん性に合ってるよ。性格的に、一人暮らしだからと言って、めちゃくちゃをするタイプじゃないし」とのお口添えもあり、一人暮らしをすることが出来ました。
最初の食事は、一人用のホットプレートを使った、一人焼肉でした。家の目の前にあったスーパーマーケット(みしまや)で、牛肉と豚肉と、キャベツ、割りばし、焼肉のたれ、あと……たぶんかぼちゃとピーマンだったかな。合計で1000円に収まるように(と言っても、実際には少し出ましたが)気を付けて、ご飯も炊いて、一人焼肉を満喫し、ようやく自分の台所を持てた喜びを実感したことは、あれから30年近く(そんなに経つのか!)経ちますが、今もはっきりと覚えています。それが私にとっての初めての「自立」した「誰のためでもない自分のための」料理の始まりでした。

大学時代は4年間(GW前から卒業式寸前まで)松江の東本町の「大衆割烹なわのれん」というお店でアルバイトをしていました。
そんなに大きなお店ではありませんでしたが、お客様は学生などはほとんど来ない、比較的落ち着いた社会人の方の多いお店で、ここではお運びが主だったのですが、それでも調理補助もさせてもらったりして、さらに料理で分からないことがあれば教えてもらったり、あるいはお酒の知識など、かなりたくさんのことを学びました。
ここでのアルバイトがなければ、今の私はないと言えると思います。

先に述べたように、私は母を中一で亡くしたため、「覚えている母の味」はあるものの、それの作り方を教わる機会はほとんどありませんでした。義母も料理が得意だったため、結構いろいろと教えてもらったことは間違いないのですが、なにせ中学三年~高校~予備校というのは、思春期真っ盛り、勉強に、部活に、恋愛ごとにと、とにかく忙しい盛りです。
そういう意味では、もちろん二人の母は私の味の「ベース」を作ってくれたのは間違いないのですが、「調理」についてはこの「なわのれん」で学んだことが、本当に、本当に役に立っています。

また、母からは学ばなかった、学べなかったもう一つが「酒と肴」です。「なわのれん」は大衆割烹を名乗っています。もちろん、お酒が前提のお店です。お酒に興味があったのですが、さすがに19歳までの実家では、酒と肴を習う機会はありませんでした。一方で、「なわのれん」はお酒を楽しむお店です。ボジョレーヌーヴォーとか大吟醸とか純米生酒という言葉を覚えたのも「なわのれん」でした。
この時代、私の転機になった一つのきっかけがあります。
それはとある銀行の確か忘年会の席にお配りで入った時のことでした。比較的上品な、いわゆるロマンスグレーぐらいの方が、少し顔を赤くして(そこそこ酔っていたと思います)
「君は、島大生(島根大学の学生)か?」
と声をかけてきたのです。
「はい、そうです」
「学部はどこ? 何をやってるの?」
「社会学をやっています」
そう答えた時のことでした。
「お、社会学か。いいね。しかも君、だったらめちゃくちゃいい所でバイトしてるね。ここはお酒も出るから、人の色々なことが分かるだろう。社会学をやっているのなら、ぜひここのバイトで、いろいろな人をみなさい」
とおっしゃられたのです。社会学と答えて「それって何?」と聞き返されなかったのも初めてだし、しかも「いいね」と言われたのも初めてでした。でも、たしかにそこでは、調理の技術も、人の色々な面も、お酒の力も怖さも、そんないろいろな経験にあふれていました。

お酒って、そういう意味でも面白いな、と思ったきっかけになった、お客様のお言葉でした。そしてこのことが、仕事として「食と酒」を扱っていきたい、ということを目指す、第一歩になったのです。


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