Trial and Error ひさびさにつき、長文注意


先日、一泊二日で京都に行って来ました。

初日は宇治市内へ……翌日は水族館と嵐山を回ってきました。

何度か京都へは行っていたものの、宇治を訪れたのは初めて。

そう、宇治と言えば宇治十帖の舞台です。

とはいえ、実は私は宇治十帖の世界があまり好きではなく……(笑) 前半の源氏のきらびやかな世界に比べて、どこか地味と言うか、陰があるというか、そういう感じがしないですか?

というのが、若いころの話で。

現在また改めて読んでみれば何か違うものを感じられるのではと思っていたのもまた事実。

宇治市内には大きく宇治川が流れ、この宇治川を挟んで、夕霧の別宅と八宮の居所があったとされています。夕霧の別宅とされたところが、現在の平等院の辺り(元は藤原氏の別宅だったため)とされています。その対岸、宇治上神社の辺りが八宮の居所では、と。

(どちらも工事中で見ることはかないませんでした。終わったころにもう一度、と思っています)

 ということで、宇治市内を暑さの中ぐるりと回り、抹茶パフェなど頂いて、宇治市内を後にしたわけですが、残念ながら、宇治十帖への思いががらりと変わるというようなことはありませんでした。

でも……やっぱり源氏物語のことをずーっと考えながら、所縁の土地を旅する、というのはいいものですね。

先に「あまり好きではない」と書いた宇治十帖ですが、なんで好きじゃないんだろう、と思った所に、私なりに発見もあったり。

それは紫式部の試行錯誤についてです。

小説を書いたりする人だと分かるかもと思ったりするんですが、やっぱり人間なんで「好きなシチュエーション」とか「好きなパターン」とかっていうのはあると思うんですよね。

それは紫式部についても同じで。

以前「キャラとテーマの繰り返し」という 記事でも書いたのですが、とりあえず、似たような話が結構多い。バリエーションというか。

で、浮舟、というのは「二人の貴公子に求愛される」というシチュエーションなんですよね。

どこかにありましたね。そう、私の大好きな「朧月夜」です。

と、ここで。「あれ? 朧月夜大好きなのに、浮舟好きじゃないんだ、私」と改めて気づいたり。変ですよね。

じゃあ朧月夜と浮舟って何が違うんだろう、と考えて。

それって「主体性」と「自律」ということかな?と。朧月夜は右大臣の後ろ盾もあり、地位も高い。おそらく金も、そして尚侍という権力もある。一方浮舟は八宮の娘ではあるけれど、今でいう認知をされていない(侍女の娘)で、中の君を頼るしか生活していけない、そしてその中の君も匂宮の愛情しか頼れない。

そうすると、立場が全然違うよね、という話なんですよ。朧月夜はどっちもを失った所で、多分そんなに困らない(悲しむかどうかは別です)けれど、浮舟は「どちらもいなくなったら未来が開けない」と思うのです。どちらかに頼るしかない。でもどちらかを選べない。そんな板挟み。

なんで、こんな苦しい板挟みを紫式部は書いたのでしょうか?

そしてここでもう一つ思い浮かんだ存在が、源氏随一のシンデレラガール玉鬘です。

九州まで落ちていたけれど、京に上り、源氏に見いだされ……浮舟も都落ちせず中の君の所に残った所で、シンデレラガールの要素は満点です。なんで、浮舟はシンデレラガールになれず、宇治川に飛び込む羽目になったのか。(リアルタイムの読者は、浮舟にシンデレラガールの再来を待ち望んだような気がするのですが、どうでしょう?)

それこそが、紫式部の晩年の書きたかったことだとしたら?

「それ」というのは……「そんな甘い話なんて、そうそうないよね」ということです。

朧月夜のように、二人の男性の愛を得ようと思ったら、すさまじいほどの権力が要る。玉鬘のようにシンデレラガールになりたければ、恐ろしいほどの運と美貌が要る。

「現実ってそんなに甘くはないのよね」と過去の自分の書いた朧月夜や玉鬘を見ながら、そんなことを思っていたとしたら。

実はそんなことを思うのにはもう一つ根拠があります。朧月夜の次に、浮舟に行く前に、紫式部は「二人の高貴な男性に板挟みされる」というシチュエーションを書いています。それが今回の記事を「Trial and Error」にした理由なのですが。

多分紫式部は男性二人に板挟みというシチュエーションが好きなのです。だから、朧月夜を書いた。多分それなりに楽しかったし、満足もしたけれど、その一方で「本当にこれでいいのか」ということを考えたのではないかと。

ということで、二つ目の「板挟み」を書きました。それが「女三宮」です。

多分、紫式部の当初の思惑としては「若くて自分を愛してくれるお似合いの貴公子」と「年をとっているが(紫式部は老醜には結構手厳しいですよね)権力があり、でも自分を愛してくれないオトコ」で、フィフティフィフティの「いい感じの」板挟みになる、と考えていたのでは? と思うんです。が、実際に書いてみると柏木は惨敗です。リアルに描けば描くほど「世間は権力」なのです。柏木は負けざるを得なかった。リアルに描けば。夢物語でないものを書こうとすれば。

そうしたら……行きつく先は。富も権力も持たない女が貴公子二人に愛され板挟みされたなら。宇治川に身を投げる、そこにたどり着いたのではないかと。

宇治十帖が最終なのは、そこに紫式部の「現実ってこんなもんよね」という思いが詰まっているから、かも知れません。だからこそ、宇治十帖を愛する人は愛するし、私のように「イマイチ夢がないわ~」と思う人もいるのかも知れません。

夢のような世界を描いて、一世を風靡した紫式部が最後にたどり着いたのは「シビアなリアル」だったとしたら。夢から覚めて、紫式部は筆を置いたのかもしれません。


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