ロマンチックな男たち~女は恋を捨てオバさんになるのか

色々な面から語られることの多い源氏物語ではありますが、世間一般での一番の源氏物語のイメージというのは「光源氏という男の恋愛遍歴」ではないかと思います。
確かに、源氏物語はそう、です。で、ふと思うのですが、源氏というのは女三宮の降嫁に象徴的に見られるように、最後まで(というか、紫の上の死去まぎわまで)、恋愛をし続けるんですよね。
他にも、中年の恋におぼれた息子の夕霧とか、玉蔓をさらっていったひげ黒も結構いい年だった気がします。

反面女性はと言えば、源典侍が一人異彩を放っているのみで、中年女の恋、と言えるものはそんなにないような気がします。
朧月夜は源氏と一度復縁したように見せかけて、そこまでおぼれたりはしませんし、六条御息所にしても伊勢から帰ってきたら何もなし(その分生霊になったりしていますが)、夕霧に迫られた落ち葉の宮だって、とりあえず最終的には夕霧のところに落ち着きますが、それまでの彼女の反応は、こんな目にどうしてあうのだろう、というもので、おおよそ中年女の恋、と言えるものではないような気がします。

オジサンの恋。オバサンの恋。
こうやって並べてみても、やっぱりオジサンの方には何かドラマが感じられるような気がしますが、オバサンの方は……
どうしてこんな感覚なのだろうと、ちょっとだけ考えてみました。オジサンとオバサンというのはいわゆる対義語だと思われているのですが、実は内容は微妙に違うのではないだろうか、と。
源氏の時代の女性たちが、中年女の恋というものにあまり積極的ではなかったことは、時代背景を考えると無理からぬことだと思います。
しかし、現代は……?

ここでちょっと注目してみたいのが、言葉遊びのようなものですが、中年女とオバさんの違いです。
「中年男の恋」と言ったときに感じる悲哀とか、奥行きとか、そんなものを「中年女の恋」にはわずかに感じるのですが、それを「オバさん」に変えると、急にミスマッチのような気がしてきませんか?
「中年女」が良くて、「オバさん」はだめとなると、この二つの違いはなんでしょうか。

俗に「女を捨ててる」と言う言葉があります。中年女は女を捨てるとオバさんになる……というのが私の仮説です。
基本的には中年男=オジさんで、中年女ー女(すなわち女性性)=オバさん、ということなのでしょうか。
ちなみにじゃあ、オヤジは? とふと思ったのですが、「中年男+プラスアルファのエロ」=オヤジ? ということは、エロオヤジというのはさらにそれを強調した表現っていうことになるんでしょうか。
ではオヤジの対義語としての女性名詞ってありますかね。ないような気がします。オバンとかもオバさんの別の言い方に過ぎないし。

そう考えてみると、千年前から今まで、エロと年配女性というものは、長きに渡って隔絶されてきたのだなぁと、そんな事を感じます。
そして反面、男性と、恋愛=エロ=ロマンスはなんと強い結びつきを持っていることか。恋愛小説が「女子供のもの」とされてきた背景には、男は現実で十分で、小説などで補給する必要がなかったからなのかも知れません。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする